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◆平安時代からの公家女性の正装です。正式名称は「唐衣裳姿(からぎぬもすがた)」と言い、朝廷出仕する高位の女官の服装なので、「女房装束(にょうぼうしょうぞく)とも呼ばれます。

≪以降、Wikipediaより抜粋≫
日本の朝廷の伝統的な装束では、袿(うちぎ)と呼ばれる複数の衣を重ねることが基本で、その色の組み合わせ、あるいは袷の衣服の表地と裏地の色の組み合わせを「かさね」(襲・重)と呼ぶ。
このような重ね・襲ねの取り合わせを「重ね・襲ねの色目」というが、色目については主に季節感を取り入れた組み合わせになっている。春夏秋冬・または植物や色単体のグラデーションによりおびただしい数の種類があり、着用の季節や行事が厳密に定められていた。これらの季節感などを無視した取り合わせを用いることはマナー違反・センスがないと見なされ、当時の女性が工夫を凝らして装ったことが当時の物語や日記などに垣間見ることができる。

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◆藤娘(別名・かつぎ娘)は、江戸時代に流行した「大津絵」の画題のひとつです。「大津絵」とは、現在の滋賀県の民俗絵画で、東海道の旅人たちの土産物・護符として知られていました。現代でも、歌舞伎や日舞の演目、お人形の題材としても人気があります。

≪以降、Wikipediaより抜粋≫
--歌舞伎舞踊の藤娘--
藤娘は、大津絵の『かつぎ娘』に題をとった長唄による歌舞伎舞踊の演目。文政9年(1826年)江戸中村座初演、二代目關三十郎が舞った。作詞は勝井源八。もとは絵から出て来た娘が踊るという趣向の五変化舞踊のひとつだったが、六代目尾上菊五郎が娘姿で踊る藤の精という内容に変えて演出を一新して以来その型が一般的になり、今日でも人気の歌舞伎舞踊の演目の一つであるばかりか、日本舞踊でも必須の演目の一つとなっている。

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◆言わずと知れた、京都の花街で舞などの余興・芸を仕事とする若い女性の衣裳です。

≪以降、Wikipediaより抜粋≫
古くは「舞子」と書き、かつては9-13歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していた。現在では中学卒業後でないとなれない。
通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」として、だらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常鬘を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪(長く垂れ下がった簪は一年目のみであり、以後は次第に花が大きくなる。)を挿す。

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◆平安時代からの男性の衣裳です。天皇陛下が即位の儀の時や、お雛様の男雛が着用されている束帯衣裳を簡素化し、動きやすくした衣裳です。
 
≪以降、Wikipediaより抜粋≫
もともと宮中での勤務服は朝服及び、朝服を改造した束帯であった。しかし束帯は石帯で体を締め付けるなどして窮屈であったため、宿直(とのい)には不向きであった。そこで、「宿直装束」として衣冠が生まれた。時代を経るにつれて束帯は儀式用の服装となり、衣冠は宮中での勤務服として定着した。
1872年(明治5年)に宮中や官界では正装・礼装を洋服に改めたため、現在では、宮中祭祀・儀式の際に諸皇族方や掌典職が祭服として着用するほかは、神社界の神職が正装として衣冠を着用する。

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◆男の子に大人気の鎧兜の衣裳です。兜を着用の姿と、烏帽子着用の姿で。

≪以降、Wikipediaより抜粋≫
大鎧(おおよろい)は、日本の甲冑・鎧の形式の1つ。その成り立ちから格の最も高い正式な鎧とされ、室町時代ごろには式の鎧、式正の鎧(しきしょうのよろい)、江戸時代には本式の鎧と呼ばれた。あるいは胴丸や腹巻などと区別して、単に鎧ともいう。
大陸の騎馬遊牧民の鎧の影響が窺え、挂甲から発展したと考えられているが、平安時代の国風文化の中で日本独特の甲冑として確立した。日本独特の大鎧形式への変化の過程やその正確な時期については、遺品が乏しく明らかでないが、おおむね平安時代中期頃にその基本形式が確立したと考えられており、馬上で弓矢を撃ち合う合戦形式が中心であった平安 - 鎌倉時代に主に騎乗の上級武将が着用する鎧として普及した。

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◆男子の平安装束の一つで庶民が身に着けた簡素な服飾。牛若丸が五条の橋で弁慶と出会うとき、水干の衣裳で描かれますね。

≪以降、Wikipediaより抜粋≫
名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利なためともいうが、いずれにせよ簡素な服飾であることからの命名のようである。
平安時代末期の絵巻では、都の庶民の多くが水干を着ている様子が見られる。生地は絹や麻布など一定しない。庶民は麻を染めたり摺ったりして色や文様を表した生地を用いていたようであるし、貴族が着る場合は高級な生地を多用した。また鎌倉時代から室町時代には公武の童形(元服前)の礼装として多用される。白拍子の水干も、童形水干と発想がつながるものであろう。

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